chapt. 3




 ひとごとのように、一枚も集まらないという事態も十分にあり得ると思っていたわたしとしては、初日から「なつのおもいで」を描いて、持ってきてくれる子がいたことは、とりあえず驚きだった。

「なつのおもいで」第一号は、夕方近くになって、おそらく描いたそのままの、クレヨンで汚れた手で持ち込まれた。余白についた小さな指紋さえ新鮮な感じだ。
 けれども、そこに描かれているものが何なのか、わたしにはわからなかった。そもそも何かが描かれているのか、それを尋ねる必要があったかもしれない。用紙には「なつのおもいで」を描くエリアとして、角を丸くした枠線が引かれていて、その内側に何かを描くのだということは容易に判断がつく。けれども、それはあくまで目安というか、だいたいのもので、それ自体が拘束力を持っていたり、深い意味が与えられているようなものではない。
 わたしが、(それが絵であるとしたら)その絵を見たとき、この子は、この用紙を塗り絵だと勘違いして、この枠の内側を一色で塗りつぶさなければならない、と考えたのではないかと思った。普通はあり得ないのだけれど、そんなふうにを子供なら誤解することができるかもしれないし、それ以外の適当な解釈が思い浮かばなかった。

 男の子で、いつこの子に紙を渡したのか、憶えていない。さっそく描いてきてくれたのね、ありがとう、と言ったあと、すぐに、
「これは、何を描いたの?」
 と聞かずにはおれなかった。その子は、爪の間に入ったクレヨンをもう片方の手の爪で取りながら俯いた。
「マークと遊んだ」
 マーク?
「マーク君って、お友だち?」
 彼はそれには答えないで、ひとまず状況説明を進めるつもりらしい。
「砂場で」
 描かれたものが何なのか、どうもすぐに答えが得られないような感じなので、しばらく順を追って尋ねてみることにした。結果、答えがわからなくったって、別段わたしが困ることでもない。
「砂場で何をして遊んだの?」
「お山、こーんな大きいの。それからトンネル」
「それから?」
「暗くなった」
「それで、こうなっちゃったのね」
 つまり、最初は、友だちと遊んでいたところを思い出しながら描いていたのが、遊んでいるうちに暗くなったから、絵の方もそれに合わせて暗くなり、ついに夜になった、というわけか。

「マークは、どこにいるの?」
 わたしは、この絵の中で、と聞いたつもりだった。絵の上の、このあたり、と指さされるはずだった。けれど、彼は、
「いない」
 と、きっぱり言った。
「えっ? マークと遊んだんじゃなかったの?」
「だって、マークって、もういないんでしょ」
「どうして?」
「えー、いるわけないじゃん」
 あんた、大人のくせにそんなこともわからないのか、というような、あるいは、からかわないでくれよ、というような口ぶりだった。笑顔を作っている自分の頬が少し冷たくなるのがわかった。わたしは、自分の納得できる答えをこの子から引き出すことができないんじゃないか、と思い始めた。画面に描かれているのが、夜なのか砂なのか定かでなく、またいずれでもあるように見えた。わたしは何かをせがむような目を彼に向けた。
 彼は、わたしを見下すというより、お母さんから関わってはいけない、と言われたことを思い出したように、ちょうど同じくらいの高さになっているわたしの視線を振り切るようにして、一歩下がった。

 わたしの後ろから、店長がそれをテーブルから拾い上げ、それについて何の疑問も持っていないのか、子供というものを知り尽くしているのか、満面の笑顔で、備え付けのボードの左上に貼った。貼るところをその子に見せて、これでいいかい? というように振り返った。その子はその子で、いたく納得した様子でそれを眺め、わたしには目をくれることなく帰って行った。
 けれども、そのボードを背負って受付テーブルに座っているわたしは、今の子の態度を別にしても、自分が塗りつぶされているみたいで、どうにもぱっとしない。